貝塚
私は愛知県豊橋市出身なのだが、たしか小学4年生の社会科は郷土の勉強と言うことで、教科書を使用しないで豊橋市が作っていた教科書(郷土史)を使って勉強した覚えがある。
特に覚えているのが「貝塚」であり、僕の実家の近所にも貝塚があり、今は氏神様を祀っている神社となっていた。
子ども心に、「どうして今の海から結構離れているのに、こんな所に貝塚があるのだろう?」と思っていたのだが、子どもの時に出した答えは、その郷土史に書かれていた近世の新田開拓によるものだと思っていた。
今になって気がつかされたのだが、標高2mくらいの所に貝塚があるということは、標高2mの所まで海岸線が来ていたということであり、縄文時代に発達した貝塚を結んでやると、その当時の海岸線が引けるのでしょう。
三内丸山遺跡の話を見ていてふと思い出して調べてみると、こんな話に行き着きました。
大西貝塚は豊川左岸の牟呂台地先端が三河湾に達する、標高2mほどの旧海浜部に立地する。
縄文貝塚は市内で13ヶ所が確認されているが、特に晩期には本牟呂地域に大小の貝塚が集中する中で、本貝塚は飛び抜けて規模が大きい上に住居跡が発見されていないことと合わせ、貝殻ばかりの貝塚で且つ貝のほとんどがハマグリで占めるという東海地方最大の干し貝加工工房と考えられる。
更に豊川河口部左岸の当地周辺には他にも水神貝塚など貝殻ばかりの貝塚が6ヶ所も発見されており、干し貝を作る作業場に適していたと見られる。昭和62年以降に4回の発掘調査が行なわれた結果、石組炉址・敷石遺構のほか、土器・石器・骨角器・貝輪などが出土したが、石器の出土点数が極端に少ない点及び日常品も少ない点は注目に値する。
関東地方の貝塚(貝ガラ盛土)は地震で被害を受けた形跡がないという話も聞いています。名古屋界隈もけっこう大きな地震のあるところですが、その貝殻盛土は地震で崩れたりした形跡はあるのでしょうか。
コメントありがとうございます。
貝塚盛土という視点で見たことがなかったので、またちょっと災害史については時間のあるときに調べてみます。
なんせ豊橋(三河地区)は田舎なので、詳細な災害記録があるかどうか??ですが、ついでに名古屋(尾張地区)の貝塚についても調べてみようと思います。
貝殻盛土が地震で被災を受けにくいのは、化学的な効果なのか?なんて思ってしましました。カルシウムが溶出することによって粒子間の固結効果を上げている・・・なんて勝手な推測をしてしまいました。
今回の話題に取り上げた貝塚ですが、ここには住居跡が無かったそうです。その代わりに大きな煮炊きをした形跡があったそうで、ここで大きな海産物(蛤専門)の加工場ではなかったか?と言われているそうです。住むにはあまり好ましくない場所だったのかも知れません。
バイオミネラリゼーションもひょっとしたら原因の一つかもしれませんが、たぶん地下水が滞留しない(横方向の透水係数の方が縦方向のそれよりも大きい)のが一番の原因のような気がします。
コメントありがとうございます。
もっと単純な理由でも考えられるみたいですね。
後退した臨海部に貝塚はあるので、貝塚盛土の中には地下水位はなさそうな感じです。
うちの実家の近くの貝塚のあるところは、背後は中位段丘がありますので、沖積層の軟弱地盤はない・・・もしくは分布層厚は薄そうです。
うちの実家の隣の畑でボーリング調査やったときに、仕事をさぼって見に行きましたが、「あれ、うちは沖積低地なのに、思ったより地盤が良いなあ・・・」というのが正直な感想でした。それでも自宅の周りの家には、地盤改良したり、杭を入れたりしてましたが・・・。