いじめについて考えてみた

子どもの中でよく見られる「いじめ」である。

どういう状態で発生するのか、今ひとつ忘れてしまっているが、たぶん「浮いた存在」というのがいじめられる対象だったのではないかと思う。

ただし、これは浮きたくて浮いたわけではなく、突発的に発生する何かに左右されてしまう理不尽なものであったと記憶している。

ただ、賢い子ども(?)はいじめられない為に、目を付けられないように自己防衛はする。

「いじめられている人を助けるべきだ」という話になるが、なかなかそういう話にはならない。

 

大人の中の社会に、いじめというのは存在するのだろうか?

もっと狡猾な状態で存在すると思う。

要らない存在を排除するために、不等な扱いをするわけである。

出る杭は打たれるという言葉もあるように、同世代からの足の引張というのもある。

大人の場合は、楽しんでいじめているのではなく、自己保身のためにいじめの対象を作るわけである。

子どものいじめとはやや違うのかも知れないが、いじめている間は保身ができるという共通点がある。

 

僕が世話になった取締役が解任されるらしい。

解任と言うことは、会社から去ることを意味している。取締役から一般社員への降格なんて無いからね。

どうやら、同世代よりも出世が早かったために、よく思っていない周囲が足を引っ張ることをしたようだ。

何年も前から続いている不祥事を、表に出して、その人に管理責任がないとかぶせた結果になった。

解任される取締役も・・・脇が甘いといえばそれまでであるが・・・

 

大人の社会では、いじめの対象を直接的に攻撃すれば、犯罪である。

いろんな臭いものを押しつけるポジションというのはどんな組織にも存在するわけで、そこにその人を追いやることはできる。

組織を守るために、有る個人に対して、それを全て押しつける。

上手くやってくれればOK、壊れるまでの使い捨てという形でいくのであろう。

そんな対象になった人に、手厚い扱いはしないだろう。

 

「沈まぬ太陽」という小説を読むと、程度の違いはあれ・・・と言う気分になる。

 

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