天才バカボン

赤塚不二夫さんが、お亡くなりに成られたそうである。

実は僕はあまり、赤塚不二夫さんの漫画に親しくない。
「おそ松くん」はともかくとして、「天才バカボン」という漫画は、happyman家ではアニメすら禁止だったと記憶している。あれを見るのは教育上良くないと言うことになっていたらしい。

それでも漫画家第1世代と言われる人達は、ほとんど亡くなりつつあるのであるが、やはり無理な仕事なのだろうか、決して長生きではないとは思う。

赤塚さん超えるギャグもう出ない…死を悼む仲間たち : ニュース : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

赤塚さん超えるギャグもう出ない…死を悼む仲間たち
お面に囲まれおどける赤塚不二夫さん(1997年8月、東京都新宿区の自宅で)=金田昭一撮影

 「これでいいのだ」「シェー!」――。昭和の子供なら誰でも一度は口にしたような、数々の流行語を生み出した「ギャグの神様」が帰らぬ人となった。

 長い闘病生活の末に2日、亡くなった赤塚不二夫さん。駆けだし時代にアパート「トキワ荘」で腕を磨き、戦後の漫画界を支えてきた仲間たちは、「枠を超えた本当のナンセンス」「彼を超えるギャグ漫画家はもう出ない」と、その死を悼んだ。

 「ほのぼのとしたユーモア漫画が中心だった漫画界に、ナンセンスなギャグ漫画をもたらした」。トキワ荘で青春時代を共に過ごした杉並アニメーションミュージアム館長の鈴木伸一さん(74)は、赤塚さんの業績を説明する。

 最後に会ったのは昨年9月。赤塚さんの個展を同ミュージアムで開催していた時、病床を見舞った。会話はできなくなっていたが、「頑張れよ」と声をかけたという。「彼を超えるギャグ漫画家はもう出ないでしょう。今はお疲れさまと言いたい」

 赤塚さんが投稿漫画家だった1955年に出会い、トキワ荘時代に赤塚さんを担当した元「少女クラブ」編集長の丸山昭さん(77)は、「オレ、ウケてんだよ。これでいいんかな」と赤塚さんが話していたのが忘れられない。漫画家としてだけでなく、タレントとしても引っ張りだこになっていたころだ。「ハチャメチャで枠を外れた、本当の意味での漫画の伝統を守り続けた漫画家でした」。丸山さんはしみじみ語った。

 ◆天国でも楽しく、と水野英子さん◆

 「若いころの赤塚さんは色白の優男で、『トキワ荘一のハンサムボーイ』と呼ばれていました」と話すのは、赤塚さんや石ノ森章太郎さんと合作漫画を描いたこともある漫画家の水野英子さん(68)だ。

 「お茶を入れてくれたり、たばこの吸い殻を捨ててくれたり、随分気をつかってくれました」。水野さんはそう振り返り、「天国でもバカボンのパパやおそ松くんと楽しくやって下さい」と別れの言葉を贈った。

 映画監督の山本晋也さん(69)は70年代、赤塚さんが中心になって企画したギャグ映画を撮ったことがある。「無名時代の私を表舞台に引き上げてくれた恩人でした。本当に残念です」

 1年ほど前に赤塚さんを見舞った時、「また一緒に映画を見ましょう」と話しかけたが、返事はなかったという。「ただニコニコと笑っていたのが、かえってつらくて」。山本さんは声を詰まらせた。

 漫画家の弘兼憲史さん(60)は、がんが見つかった後の赤塚さんにイベント会場で出会い、「無理なさらないで下さい」と声をかけたところ、「ビール飲みに行こう」と言われて、本当に連れて行かれたことを覚えている。「手塚治虫さんと同じ漫画界の横綱。雲の上の存在でした」。弘兼さんは大先輩をしのんだ。
(2008年8月3日01時51分 読売新聞)

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