極刑とは何か?

光市の殺人事件で死刑という判決が出ました。

遺族の立場から見れば、死んで償って欲しいと思うのは、当然のことのように思います。

ただ、この犯人、伝え漏れてくる話では反省することもなかったらしい。

 

最近、「人を殺してみたかった。相手は誰でもよかった。死刑にしてもらって一向にかまわない。」という犯人が多いこともあり、死刑が凶悪犯罪を抑止しているのか解らない。

日本の死刑というのは、いわゆる”首つり”である。

足が載っている踏み台をはずせば、そのまま宙づりで、頸部圧迫による窒息死が待っているようである。

実際には頸部圧迫の前に、自身の体重が一気にかかることによって、首の骨が折れるらしいが・・・

 

僕は死刑反対論者ではない。

遺族が、この犯人と同じ息を吸っているのも忌々しいと思う気持ちにも同情する。

でも、残念ながら凶悪犯罪者は「死」への恐怖なんてものは感じていないのではないか?

感じていないから、反省もしない。

 

赤木智弘氏の「深夜のシマネコblog」によると、「死刑は手ぬるい」とのことである。

以下引用。

●死刑判決ねぇ。

 死刑を讃美する人たちは、犯人に対して優しいねぇ(苦笑)

 私が犯罪被害者家族で、犯人に対して恨みを持っているのであれば、絶対に死刑なんていう「あの世への釈放」を許したりしないんだがなぁ。だいたいこの国では「死んだら仏様」(小泉純一郎)なんだから、死んだだけでどれだけ悪辣な犯罪でも、犯人が死ぬだけのことで、あっさりと浄化されてしまうわけだ。で、残された犯罪被害者家族はどうするんだ? 私が犯罪被害者家族だとしたら、犯人に死んで仏様なんかになって欲しくない。かといって、犯人に対する更生なども期待しない。なんでそんなものを更生なんてさせて、社会に釈放してやらなければならないのか。

 結局、あの世にせよこの世にせよ、私が犯罪被害者家族だとすれば、ありとあらゆる釈放を許したくはない。犯罪者は社会に出るのでもなく、かといって死によって浄化されるのではなく、その狭間の自由なき留置場でも刑務所でもいいけど、そのような人の生きていく意味の存在しない場所で、存在価値もないままに、ただ自分の無意味な存在を見つめながら、むなしく永遠とも思われる時間を消費していって欲しい。そういう場所をキリスト教だとリンボといったような気がする。

  死刑こそが悪人に対して、もっとも厳しい刑罰だと思う人は、幸せな人たちだと思う。彼らは彼ら自身がこの世界に生きていることの意味を一度も疑ったことがないのだろう。生きていることは幸せで、死ぬことは辛いことだと思っているのだろう。でも、死なないことの方がよほどツライっていう人だって、この世にはたくさんいるんだよ。ましてや無為のまま生かされるなんて苦痛の極みだ。フリーターとしてそうした時間を長らく過ごすことを余儀なくされた私は、その辛さを良く知っている。

赤木氏の言っているることは一理ある。

目的無く無駄に生きながらえさられることこそ、普通の人間では一番苦痛なことである。

まあこの場合、一般的な人間の理性を持ち、生きていこうとしているこころの持ち主に対して言えることだと思うのだが・・・

究極の極刑とは何だろう・・・どうやら現行の死刑ではないらしい。

悪魔のような脳内妄想をしてみた。

僕の考え得る脳内妄想は以下の通り。

 

凶悪犯罪者は一般社会とは接することのできない隔離施設に男女問わず入れてしまい、好きに生活してもらう。

島流しなんてのがいいかもしれない。

食糧・エネルギーも最低限の支給をするが、その代わり自由な生活を営んでもらうこととするのだ。

農業もやるもよし、商売をやるもよし、ただ、その代わり一般社会からは完全に隔離される。

犯罪者同士で結婚していだだいても結構である。

(そこで産まれてくる子については問題がありそうなので、去勢はしてもらう必要があるかも知れない。)

ただここには、「法律というものは無い」ので、隣に住む人も凶悪殺人者である。

あとは・・・ご自由に・・・。死ぬまで出られない場所を提供いたします。

 

なんか三文小説のようになってしまいました。

人間は生きたいと思っているときに殺されることこそ、無念なことはありません。

それを味わってもらうには、こんな社会を提供するしか無いかも知れません。

 

 

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